ロシアが清朝から奪った土地

諸事雑感

 先日(2/26)の記事で、「中国は、ウクライナ戦争でロシアが疲弊し国力が低下した暁には清朝末期にアイグン条約や北京条約といった不平等条約により奪われた沿海州等の広大な地域を奪還することを企図していると考える。」と書いたところ、その辺の歴史的経緯を詳しく教えて欲しいというご意見を頂きましたので、分かり易く整理してみました。

 ロシアの領土拡大は ネルチンスク条約 → アイグン条約 → 北京条約の3段階(イリ条約まで含めると4段階)で進行しました。ネルチンスク条約は清に有利だったのですが、続くアイグン条約、北京条約では清朝末期のアヘン戦争・アロー戦争(注)による軍事的敗北と国内混乱につけ込まれてロシアに広大な領土を割譲せざるを得ませんでした。特に北京条約では、ロシアは仲介外交を利用して沿海州を獲得し日本海進出を実現しました。

注:アロー戦争は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起 こった戦争。戦争の理由の一つであった、中国人による多くのイギリス人との衝突のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本では「アロー戦争」と呼称される場合が多い。またアヘン戦争に続きアヘンの密貿易に関連して起きた二度目の戦争であることから第二次アヘン戦争とも言う。

条約ロシアが得た地域
ネルチンスク条約1689(ロシアは譲歩)黒竜江流域から撤退
アイグン条約1858黒竜江左岸の広大な地域
北京条約(露清)1860沿海州(ウスリー川以東) → ウラジオストク建設
イリ条約1881中央アジアの一部地域
  • 緑色:1858年「アイグン条約」でロシアが得た地域(黒竜江左岸)
  • 薄茶色:1860年「北京条約」でロシアが得た沿海州(ウスリー川以東)
  • これによりロシアは ウラジオストク(1860年開港) を建設し、日本海への出口を確保

以下、時系列で整理します。

1689年:ネルチンスク条約(康熙帝 × ロシア)

  • 清とロシアの最初の正式な国境画定。
  • 外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を国境とし、ロシアは黒竜江(アムール川)流域から撤退
  • この時点ではロシアが大きく譲歩した形。

1858年:アイグン条約(咸豊帝 × ロシア)

  • 19世紀に入りロシアは再び東アジア進出を強化。
  • アロー戦争(英仏 vs 清)で清朝が苦境に陥った隙を突いて締結。
  • 内容:
    • 黒竜江(アムール川)左岸の広大な地域をロシア領と認めさせる。
    • 沿海州(ウスリー川以東)は清露の共同管理とされた。

1860年:北京条約(清 × ロシア)

  • 英仏連合軍が北京を占領し、円明園を焼き払うなど清朝は壊滅的状況。
  • ロシアは「仲介者」として振る舞いながら、その見返りとして清と別個の北京条約を締結
  • 内容:
    • 沿海州(ウスリー川以東)をロシア領と正式に認めさせる。
    • ロシアは念願の不凍港ウラジオストクを建設し、日本海へ進出

更に1881年:イリ条約(中央アジア)

 中央アジア(イリ地方)でもロシアが圧力を強め、最終的に清は広大な地域の割譲を認める。

まとめ

 このような経緯で清朝はロシアにやられたのです。習近平は清朝の最大版図を回復することが「中華民族の夢」「中華民族の復興」と考えているようなので、ロシアの弱体化の好機を捉えて領地奪還を図る企図を持っていることは間違いないと考えます。

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